たなかこういちの開発ノート

システム開発に携わる筆者が、あれこれアウトプットするブログ

國分功一郎著、「中動態の世界 意思と責任の考古学」を読んでみた

 
「おすすめ本」紹介サイトHONZで紹介されていた同書に興味を持って読んでみた。
 
〜・〜
 
現代の印欧語は、能動態-受動態のパースペクティブに支配されている。ところが古代ギリシャ以前には、能動態-中動態というパースペクティブに支配されていたという。それが時代を経て能動態-受動態のパースペクティブに取って代わられた。中動態は現代ギリシア語に文法要素として生き残っていて、ギリシア語を学ぶと能動態、受動態、中動態の三態あると普通に教わることになるという。
 
能動態-受動態のパースペクティブでは、常に行為主体の意思が問われる。ある行為が為されたとき、それは誰によるものかを意識させる。主語が為した=能動、主語が(別の何かによって)為された=受動、である。
 
能動態-中動態のパースペクティブにおいては、そもそも能動態の意味が変わる。能動態-中動態のパースペクティブにおける能動態は、行為が行為主体の外界に向けて為されていることを表す。中動態は、行為が行為主体の内で進むことを表す。このパースペクティブにおいては、行為における意思の介在は問われない。行為の場だけが問われる。
 
同書の中であげられた例を用いると、「馬の手綱を解く」が能動態-中動態における能動態で言い表されていれば、「使用人が主人のために馬の準備をする」の意味になり、中動態で言い表されていれば、「主人が自ら乗る馬の準備をしている」くらいの意味になる。
 
同書での別の例を挙げると、「銃を向けられ、金品を差し出している」という場面を想定する。この場合の「金品を差し出す」は、能動態で表現すべきか、受動態で表現すべきか?行為は行為主体によって能動的に為されているのだろうか?受動的に為されているのだろうか?脅されているのだから受動的だといえるかもしれない。「(他者による脅しによって)金品を差し出させられた」のである。しかし、差し出すその行為実施時点では、金品を手渡す行為は能動的に為していると言うしかない。例えば「殴られた」という明らかな受動的状況と比べてみれば、(嫌々ながらも)自ら“能動的”に行為しているとみるべきしかないことがわかる。このような状況は、能動態-受動態の対立構造からはうまく表現しきれないのである。ところが、能動態ー中動態のパースペクティブに則れば、実にしっくり説明できる。「脅されて(嫌々ながらも)金品を差し出す」という行為全体は、主語となる主体の側で生じている。つまり、中動態なのである。対する「脅している」側を見てみると、自分が他者を脅す、つまり自分の外界に対して脅すという行為を為しているので、能動態-中動態パースペクティブにおける能動態である。
 
ところで、哲学において、「意思」の問題と「権力」の問題は、脈々と論じられ続けてきた重要なテーマなそうである。哲学においては、近代理性を具現化したところのいわゆる“自由意志”、完全なる自由意志といったものは、とっくに存在する余地は無いそうである。完全なる自由意志とは完全なる能動を意味する。完全なる能動とは、いかなる前提条件や制約、あるいは外的な強制からも“自由”に、行為の実施を判断することをいう。日常的感覚からも、そのような“完全な能動”やら“完全な自由意志”は存在しなさそうだということは受け入れられる。しかしだからといって、「意思」的なものを完全に破棄することも(日常感覚的に)出来ない。哲学では「意思」的なものの完全破棄を目指したものもあるようだが、やはりそれも受け入れることはできないでいる。
 
能動態-受動態のパースペクティブに立脚し、自由意思の存在を仮定することは、行為に対する責任を問えるようにしたい、という社会的要請に依るという。
 
同書では、能動態-中動態のパースペクティブに立脚し、そこにスピノザ哲学の知見を導入して、新たな能動-受動観を描いている。(私の理解不足のせいでだいぶ不正確な説明になるが、)主体が外部から刺激を受けてある行為を為したとき、その行為の原因は、主体自身のそれまでの歴史性と整合性を取りつつその延長において自ずと為されるべきと思えるものと、外部刺激に対する短絡的な反応との混合物になるという。前者の自らの歴史性と整合性を取りつつの延長に起因する割合が多い時、より能動的であり、後者の外部刺激に対する短絡的反応に起因する割合が多い時、より受動的だと理解する。完全な能動は無いが、完全な受動もない。行為は常に能動的特質と受動的特質の混合である。その割合の過多によって、より能動的だったり、より受動的だったりする。完全な自由意志はもはや想定できないが、能動性と受動性の割合において、より能動性を多くしようという小さな努力(?)は可能だろう。このような理解である。
 
中動態の歴史をみてみると、中動態から自動詞、再帰表現(※"I beat myself."のような言い回し)、そして受動態が分化したと考えられている。中動態の「行為が行為主体の内で進む様子を表す」という定義を鑑みると、いずれの分化もよく理解できる。受動態と自動詞は兄弟の関係にあるといえるのだ。ところが受動態が成立すると、受動態は中動態を抑圧してしまった。能動態-中動態のパースペクティブは、能動態-受動態のパースペクティブに取って代わられてしまった。
 
中動態抑圧の歴史過程については、同書では深く掘り下げられてないようなのだが、古代ギリシアに始まるところの哲学が発達したこと、近代理性に基づく意思が社会的に要請されたことと少なくとも相関しているという。
 
ここでそもそもの印欧語言語史を振り返る。現代の印欧語は動詞が中核となる「動詞的構文」といわれる。能動態-受動態、能動態-中動態の問題も動詞に関わるものである。しかし、その起源は名詞が中核となっていた「名詞的構文」だったという研究がある。現代の印欧語の共通起源として想定されている「共通基語」というものがある。「共通基語」は一つの説では紀元前300年ごろまで使われていた。「共通基語」には既に動詞が存在していたと考えられている。つまり、名詞的構文の時代はそれよりも前である。名詞的構文では、動詞が無い、というよりも名詞と動詞に区別がなかった。のちに動詞に分化する名詞は「動作や出来事を表す抽象名詞」だった。動詞に分化した当初、人称の概念が無かった。現代の非人称構文に相当する。要は原初の動詞的構文では行為者を表すことなく動作や出来事を示していた。
 
同書の筆者はここで一つの仮説を提示する。印欧語の言語史は、次のように展開したのではないか?
 
(1) まずは、名詞的構文の時代があった。
(2) 動詞が分化して、原初の動詞的構文が成立した。
(3) 原初の動詞的構文には人称概念が無かった。これが、原初の中動態の構文として確立した。
(4) その後、原初の中動態から、人称を明示する構文、他動詞、能動態が分化した。
(5) 次に、自動詞、受動態が分化した。
(6) ひとたび能動態と受動態が成立した後には、中動態は抑圧されていった。
 
中動態(が表現するようなパースペクティブ)は抑圧されてはいるが、絶滅した訳ではない。現代ギリシア語には明示的な文法要素として残っているし、他の印欧語でも、中動態を起源とする非人称構文、再帰表現などが役割を果たしている。「銃を向けられ、金品を差し出している」場面は、能動態-受動態のパースペクティブからは説明しきれない様相を内在している。
 
英語における「中間構文」も中動態の回帰とでもいうべき現象だという。中間構文として以下のような例が挙げられている。
 
"Your translation reads well." (君の翻訳は読みやすい)
"This camera handles easily." (このカメラは使いやすい)
"The book sells." (この本は売れている)
 
最後に、日本語においても、印欧語同様に、かつて能動態-中動態のパースペクティブに在ったところが、能動態-受動態に取って代わられていくという歴史過程があった、という研究が紹介されている。もちろんその過程において印欧語と日本語が直接相互に影響を与え合ったとは考えられず、独立平行して生じた過程だと想定される。人間の操る異なる言語が共通の歴史を辿ったことは何を示唆するだろうか。
 
〜・〜
 
以上、私の同書の読解である。
 
 
以下いくつかの考察を。
 
○ 現代日本語は現代英語に比べて、より中動態的なのではないか?
 
どこで見聞きしたか忘れてしまったが、日本語の主語とは英語の主語とは異なり、行為の主体を表していないという説を聞いた事がある。では何を表しているのかというと、主題の提示だと云う。そして文脈上主題が明白なら省略することができる。もちろん日本語でも、主語=行為主体だという文は当然可能だが、それも主題としてある人物なりを設定している、という表出になる。主題が行為主体でない場合、主題が表しているのは、概ね行為の推移する場となる。
 
このような日本語の主語とは、まさに中動態的に理解できるのではないか、と考えた。(※結論は得られて無い。)
 
○ 英語の"subject"にも「(行為)主体」〜「主題」の意味の幅がある
 
文法用語の「主語」は英語では"subject"である。"subject"の文法用語以外の用法としては、まさに「(行為)主体」の意味があるが、「主題」や「テーマ」といった意味もある。実は英語においても、「主語」には行為主体から主題までのニュアンスの幅があるわけだ。このことも動詞の起源が中動態的構文にある(かもしれない)ことに関連があるのではないだろうか。(※結論は得られて無い。)
 
○ システム仕様記述上の主語は人か?システムか?問題
 
「ボタンを押下したら、ダイアログが開きます。」
「ボタンが押下されたら、ダイアログを開きます。」
どちらが適切か?問題である。
 
散々議論されてるテーマだが、もしかしたら「システムを主語とした中動態表現」がベストなのではないか?
 
中動態的状況を説明するのに「脅されて、金品を差し出させられた」例があった。システムは嫌々仕事をしているかどうか定かではないが、行為遂行における関係性において、人(ユーザー)とシステムの関係性は、この例ような状況に相似と云えるのではないか?(少なくともシンギュラリティ前までは。)
 
〜・〜
 
<2017.10.11追記>
このようなイベントに参加して、懇親会にて國分功一郎氏に日本語と主語の問題について直接質問を投げかけてきた。そして次のような趣旨の回答を頂いた。
 
・仮に、「主語を省略できること」と「より中動態的」ということに関連があることが確かだとして、、
・現在主語を省略できる言語は日本語に限らない。
・また、現在主語が必須となっている(一部の)印欧語族も、かつては中動態世界だったわけである。
・つまり、むしろ、現在「(一部の)印欧語族で主語が必須である」、という方が特殊形態に変化したものだと捉えるべき。
※欧米のメインストリームの言語と日本語を比べて「日本語の特殊性」といったりするが、古今東西見渡すとむしろ現在の欧米のメインストリームとなっている言語の方が特殊である可能性が高い。
・「中動態を論じるなら主語を論じなければならない」という指摘は受けていて、次作でまとめる予定がある(!)
 
◆以上