たなかこういちの開発ノート

システム開発に携わる筆者が、あれこれアウトプットするブログ

落合陽一著、「デジタルネイチャー」を読んで

本記事は、落合陽一氏著「デジタルネイチャー」の読解メモである。
 
 
落合陽一氏および/または著書「デジタルネイチャー」をどのように評したとしても、全て氏の手中にあるように感じる。一方これだけの書を読みつつ、たとえ理解が部分的であったとしてもそれについて何も評しないのも、この書に焚き付けられてしまった今、不可能というものである。
 
あえて企画的にそのように構成したのか、それとも落合氏にとってこれが"自然"な表現なのか不明だが、「デジタルネイチャー」は、細かく解析的に読解しようとしてもかえって意図が取りにくくなる。細部に捕らわれずに全編通読した方が趣旨を見出し易いように思う。まさに「悟れ」、「考えるな、End-to-Endで感じ取れ」と言わんばかりである。
 
禅的に、悟るにせよ感じるにせよ、それができるためには、一般に極めて高いハイコンテキスト性を前提にできる必要があって、膨大な事前知識を会得しておく必要がある。日本の風土、その季節性や歴史性を深く体得していないと、例えば俳句は読み解けない。本書もしかり、言及されている個々の事物は別途事前に理解しておく必要があるようだ。(その為の脚注群だ。)
 
「デジタルネイチャー」はその論旨を論理的に展開したようなものではない(と思う)。"自然"か企画か分からないが、ある意味、関連させたい語彙や概念を関連させたいように関連させただけである。その関連の<<ステレオタイプ>>は「計数的な自然」などとして示されるが、その意味内容の個別的解説はある意味ほぼない。関連を一つずつ辿ってもほとんど意味はわからない。関連させられた語彙や概念の有向グラフの全体を俯瞰することでのみ、そこに表出してくる何らかのビジョンを認知できる。
 
何かを論述しているはずの書籍だと想定していると、ある種の感性を完全には言語化せずにまき散らしただけ、にも思えて当惑する。これが戦略的に取られた手法だとしたら、少々ずるいやり方にも感じる。ただ、そこに戦略と戦術が存在したとしても、それはある種の"効果"を狙ったものだろうと想像されるし、その狙い自体は認めるし、実際いずれにしてもその"効果"は覿面に現れていると思う。本書以外の各種媒体から、明らかに落合氏は明確な課題と使命感を持っているだろうことがわかる。落合氏が持っているであろうミッション自体の理解を本記事で試みることはしないが、とにかくその使命達成のための一つのアクティビティが本書なのであろう。
 
章が進むにつれ、明白に咀嚼が困難になってくる。本書の構成の所為か、読解力不足か、なんであれ、落合氏のあるいは本書の視座の高さにつまるところは到達できていない、ということなのだろう。(構成がずるかったとしても、"戦略"とやらがあったとしても、視座に追いついていれば容易に掌握できるはずだ。)結局、本記事執筆時点でも本書の言わんとすることの全ては理解できたようには思えないが、今後にいくつかの物事を見ていくときの足掛かりは得られたように思う。
 
 
以降には各章毎の読解メモを記す。
 
<まえがき>
 本文を圧倒しそうな脚注は士郎正宗作品が如く、そこに在るビジョンも実際"Ghost in the Shell"を彷彿させる。西洋的な形而上の意味論で処理した今までと、東洋的な形而下の事象を直接変換するこれからだと言うが・・・。
 
<第1章 デジタルネイチャーとは何か?>
 AI+BIとAI+VCに二分された世界。この二極化は避けられない近未来予想図とされる。こちらはThe Matrix的風景か。AI+BIの世界(比喩的にMatrix)で安寧に過ごすもよし、AI+VCの世界(比喩的にZion)を目指すもよし。
 
 「最大の格差は経済資本になく、モチベーションと衝動という文化資本の格差。」「リスクとモチベーションには相関がある。」「リスクを取った人間の衝動に基づく行為は、AIは予測し得ない。」赤いピルは用意されているのか?赤いピルを飲む用意はあるか?
 
<第2章 人間機械論、ユビキタス、東洋的なもの>
 「コンピューテーショナル・フィールド」、意訳するに"演算場"、解釈するに深層学習がビルトインされ、データセット選択するだけで、モデルは(ディープラーニングの仕掛けにより)"自然"に生起するようなユビキタスプラットフォーム。(場の媒介粒子はまさに"演算子"か。)コンピューテーショナル・フィールド内に生起するモデルは、解析的に理解する必要が無いあるいは出来無い。現象と現象の結果的な関係だけで解かれていく。縁起、悟り、理事無碍、事事無碍をこの「場」における認識や相互伝達のスキームのモデルとして援用。
 
 この新しいスキームは、クジラ🐳による音波ベースのコミュニケーションに類似するらしい。彼らは「セマンティクス」ではなく「プロトコル」で、会話(?)しているしているといわれているとのこと。彼らは「言語」ではなく、「データ」をダイレクト転送している?
 
<第3章 オープンソースの倫理と資本主義の精神>
 資本主義とオープンソースは対立関係にあるかと思いきや、「今や資本主義はオープンソースなしでは立ち行かない。オープンソースもキャピタルゲインの余剰なしには成り立たない。」「オープンソースは新たな倫理として資本主義の下部構造を成している。」という状況であると。オープンソースは「共有」という点から共産主義的に発展するかと思いきや、現実には市場原理の極致と相互依存する。オープンソースと資本主義が為す新しいデジタル生態系は、その維持において21世紀版の全体主義的様相を呈す、と。
 
 20世紀の全体主義は、民主主義が"数の力"で推進され得るところから誘発されたが、21世紀の全体主義は、エコシステムに全体最適を目指すという原理が内在しているところから生起するだろう、と。結果的なベクトルは類似としても、推進原理は全然違う。20世紀の全体主義は西洋的ピラミッド構造だったが、21世紀の全体主義は東洋的フラクタル(曼荼羅)構造。
 
 オープンソースと資本主義は現在は微妙なバランスで共存。将来は21世紀版全体主義に融合した経済風景となるだろうが、やや遠い未来予想図。
 
<第4章 コンピューテーショナル・ダイバーシティ>
 まず、「社会」「科学」「意識」など、欧州が200年かけて醸成した近代を形作る語彙セットを、明治期の30年間に急速に日本語にだいぶ無理に翻訳し取り込んだためねじれがある、という。
 
 "real"/"virtual"については「物質」/「実質」と当てる方が妥当。加えて「物質」/「実質」に通底する「本質」。物質/実質/本質のバランスにおいて無制限のオルタナティブ。VTuberからAI Botまであらゆる知能の形態を見出し得る。
 
 ハードウエア面。腕の欠損や視覚障害などを補完するためのコンピュータ支援された身体補完装置。これらを集積することで1体分のロボティクス開発に繋がる、というアプローチ。テクノロジーが身体を容易に補完できる社会では人の特徴や能力差は単に操作可能なパラメータの問題に帰結。
 
 意思決定では、全員が決定事項に直接的に従う必要はなく、各個やローカルグループは標準値に対して各々の距離感を取れば良い。ローカルグループ間の差異がグローバルには標準値に落ち着くようには計算機(AI)が裁定する。
 
 コンピューテーショナル・ダイバーシティは、人の社会面、身体面での差異は計算機自然が吸収すると言うもの。さらには人工知能/自然知能の差異、あるいは一つの知能の人工/自然の配分の割合の違いも区別がないという意味のダイバーシティも。
 
<第5章 未来価値のアービトラージと二極分化する社会>
 AI+VC対AI+BIという社会構造はある種の棲み分け、とはいえやはり新たな搾取構造、帝国支配だという認識を示す。戦後、マスメディアがオープンやフェアを担うものと期待された。が、TV的ポピュリズムに変化、政治世論複合体という権力構造を成した。それを打破するものとして、インターネットが次のオープンでフェアな仕掛けとして登場したがそれも今は新しい帝国支配の元にある。
 
 オープンソース、およびオープンソースやそのコミュニティのシードとなる「ラボ」、さらにブロックチェーンによる非中央集権な取引エコシステムの普及で、誰もが「第3のてこ」を用いることができるようになり、新たな二極対立を克服するか。3章で示されたように資本主義とオープンソースは相互依存しているので、ここにブロックチェーンによる非中央集権取引システムをインストールすることで、新たな経済的均衡点にシフトすることが期待される、、と理解。
 
<第6章 全体最適化された世界へ>
身体面
(1) 以下が一般化したとき、人の身体性とは何か?
- ゲノム編集に基づくデザイナーベビー
- Computer (AI)-assistedな義手義足や視聴覚等を補助する装置
- 3Dプリントによるパーソナライズされた外観
- 超高解像度VR
- テレイグジスタンス(※リモート義体、だな)
 
精神面
(1) Computer (AI)介在のコミュニケーション基盤上で、Person-to-Personの対話にAIが介入してメッセージをアレンジするようなとき、人は"人"と会話しているのか?それとも"機械に支援された人"と対話しているのか?それとも"人に支援された機械"と会話しているのか?区別することに意味があるのか?
(2) コミュニケーション基盤上で、AI-Botが故人のツイートを再現し続けたら、その"人"は亡くなってるのか?
 
社会面
(1) 人が所属していると認識する社会的グループ(※いわゆる"クラスタ")は、Computer (AI)介在のコミュニケーション基盤を通して形成されているところのものを人が捉えたもの。コミュニケーション基盤上にて、Computerは情報をリコメンド(追加)したりフィルター(削除)したりする。そのようにして形成された社会的グループの生態系の有様は、人によるものか?機械によるものか?区別することに意味があるのか?
(2) インターネットの寿命はおそらく数千年以上となるだろうと落合氏は考えている。「計数的な自然」は全体最適を目指すという意味での全体主義的様相を呈するが、全体最適化の過程は数千年の時間枠で進めらる。つまり人の寿命を越えて、人の世代をまたがって、事態は進められる。一般に、社会における問題は、その因子が次世代に継承されないようにすれば、人の個体に直接作用せずとも、世代を経ていく中で徐々に解消されていく。数千年の時間枠で働き続ける指向性=もはや"意志"=により初めて成せること。
 
<終章 思考の立脚点としてのアート、そしてテクノロジー>
ムリなので、キーフレーズを列挙するのみ。
 
ユビキタス・コンピューティングの先にある、「知能化した超自然」を媒体として、実質と物質、人間と機械の区別が融解した世界
 
問いと解を同時に設定する/アプリケーション・ドリブン/実践と思想が切り離せない
 
情報技術のコアと周辺:
周辺は、丁寧な仕上げや挙動の安定性
コアは、事事無碍的なある種の魔術化とある種の自然化を伴った無意識下に行われる適用が必要
 
 
一つ大きく分からなかった点がある。「End-to-Endで感じ取れ」というスキームでのコミュニケーションが、「コンテキストに内在する意味論の明文化とその交換」というスキームによるものより優位となる、と云っていると解したが、本当だろうか?結局、理解した/できたことを表現するには、特定のセマンティクスを被せつつ解釈し、それを言語的に表明するしかないのではないか?それを繰り返すしかないのではないか?そうで無いなら、まさに"信仰"なのではないか?信仰にも"盲信"と"悟り"といった二種類があるのか?
 
<'18.8.23追記>
この点、ご本人に確認することができたのだが、“優位”だとは言っていない、とのこと。「End-to-Endでの伝播」の方が低コスト(=セマンティクスを擦り合わせていく、などといった作業に比べて、当事者がコミュニケーションに必要な労力が、少なくて済む、という意味)故、ある発信をしたとき、それが伝播するだろう範囲(人数)が、広いだろうと。そういう意味で、深い理解が必要でない場面(※この場面の方が多い)で使っていけばよいよね、とのことだった。
 
〜・〜
 
<追補1>
ネットを見ていると、本書あるいは落合氏に対する批判は多く見られる。(単なるやっかみなどは除外して、)批判は大別して、次の二種類に集約されるように思った。
 
(a) 全般に対して、AI普及後の未来予想図であれ、仏教であれ、働き方であれ、新しいことは何ら言っていない、という批判
(b) 各分野の専門家の立場から、AIや各種テクノロジー、働き方などのビジョンについて、そう単純には進まないだろう(=見落としがあるぞ)、という批判
 
(a)については同意できる気もする。ただ、そうだとしても、「未来予想図とかAIとか仏教とか働き方とかをある観点でパッケージングした」という点での付加価値があると思っている。一般に“パッケージング”を軽視する意見は多い。10年くらい前もiPhoneには技術的に新しいことは何もない、とよく批判されていたと記憶する。それと同じような構図に思う。(ちなみに、パッケージングとマーケティングと落合氏の言う「アプリケーション・ドリブン」はほぼ同義だろう。)もう一点は、これは想像なのだが本文にも書いたが、そもそも落合氏は「何か新たに主張もしくは提唱したいことがあってそれを書いている」というよりも、「何かみんなに取ってもらいたいアクションがあって、そのアクションを効果的に喚起するような効果を狙って書いている」と思う。だとしたら、本書そのものに新規性が有る無しは、落合氏にとっての観点ではない、ということになる。で、その狙いはまさによく達成されているのだろう。
 
(b)については、個々の主張の内容の是非は私には判断できないので、(落合氏含めて)各専門家の主張は、基本的にはそれぞれ妥当なのだろうと捉えるのみである。そうすると、例えばディープラーニングベースのAIの有効性や限界や懸念について、複数の専門家が複数の意見を言っている、という様子を伺える、という状況に在ることができる。このとき、落合氏の描く“アプリケーション”が理解の役に立つ。例えば、「End-to-Endのコミュニケーションの裁定や最適化」という“アプリケーション”を(肯定的立場で)想定しつつこういった論説を読むことで、その論説の云わんとすることがよりよく理解できる。これも“パッケージング”という付加価値に依るところのものであろう。
 
<追補2>
千葉雅也氏(@masayachiba)による「デジタルネイチャー 」評をまとめた。"中和剤"として。
 
「千葉雅也氏(@masayachiba)による落合陽一氏(@ochyai)著「デジタルネイチャー 」評」: https://togetter.com/li/1253188
 
大きく二つの論点があるか。
 
・計数的自然を担うAIは、結局誰かが設計・運用するのだから、落合氏の云うような「例外なく全人類の上部構造になり、完全に公正に仲裁機能を発揮する」という見通しは楽観的すぎる。
・落合氏はおそらく「喪失」というテーマを持っている。ある種のニヒリズムが根底にある。
 
<追補3>
「なぜ落合陽一は研究をするのか」という、ズザ氏(@zouphant)による、ズザ氏と落合氏の対話のまとめ。
 
「なぜ落合陽一は研究をするのか」: https://togetter.com/li/785441
 
この中で落合氏は、「人生や命には等しく価値がないと僕は思っています」と言っている。<追補2>の千葉氏が読み取った「ある種のニヒリズム」を裏付けるフレーズに思える。
 
また、落合氏は自身が研究を進めることを“信仰”だと表現している。
 
<追補4>
「AI+BI」なスキームに対して懸念を示している記事を見つけた。(※落合氏に言及している訳ではない。)私は次のように理解した。:落合氏の説く「AI+BI社会」とは、濱口氏のいう「タスク型」に相当して、それは良くない、と。「BI」ではセーフティネットが単層となりそれでは脆い。何か多層的な構造がないとセーフティネットとして脆弱だという。
 
リクルートワークス研究所, 濱口桂一郎氏, 「メンバーシップ型・ジョブ型の「次」の模索が始まっている」:
 
◆以上